制作ドキュメント

『夜ヒカル鶴の仮面』10月30日@京都芸術大学搬入口にて上演予定

Week1

お稽古の始め方には決まりはないので、俳優と演出家とが双方に用意をして持ち込まれるものもあれば、お稽古場で自然発生的に生まれるものとある。今回の劇場実験は、制作前に研究者の方々の話を聞く機会もあったので、持ち込まれているイメージは豊かともいえるし、バラバラとも言える。

『夜ヒカル鶴の仮面』がとても難しい戯曲だと思うのは、もしかするとそのイメージのバラバラさにあるのかもしれない。上演に向かう過程で、ひとつの方向性にまとめようとすることが、この戯曲の魅力をそいでしまう。おもちゃ箱のように遊びにあふれるこの戯曲は、神話としての“荒唐無稽さ”を携えている。ところが演劇は生身の人間が目の前で演じていくので、俳優の中で腑に落ちていなければその荒唐無稽さは意味のないものになってしまう。どう出鱈目を積み重ねるか。

出鱈目の空間というのは、他者と出会うことによってはじめて立ち上がるように思い、稽古場の最初の2日間では俳優たちと一緒に仮面づくりをした。“仮面”。これもまた何をもって“仮面”とするかを定義してからでないと手をつけられないのだけれども。針金、アルミホイル、紙粘土、紙、グルーガン、アクリル絵の具、そんなものを使いながら、7つの仮面を作った。鶴、犬、狐、猫、猿、狼、魚。くにたち市民芸術小ホールのアトリエ(図工室)で、途中避難訓練に参加したりしながら、結局ちゃんと丸2日かかって7つの動物仮面を作った。お祭りの準備に似ている。お祭りの準備ってあまりしたことがないのだけれども。自分たちの弔いをするためには、まず、自分たちの弔いに使うものをつくらなければいけない。きっとそんな感じ。

台詞を覚えるとか、体のウォーミングアップをするとか、コミュニケーションをとるとか、そういうことも始まっている。これらすべてが弔いのための準備だと考えると納得がいく。弔いは突然くるものだから、すべては簡易に用意できるものであるはずだ。水とか塩とかタカサゴギクの葉っぱとか。弔いにしか出てこない道具もあるはずだ。白い提灯とか、紙の靴とか、あの世で使うお金とか。物に込められるタイムスケールを感じながら、土曜日の稽古の後には山田君と武者君と買い物に行った。ほとんど山田君が使うものなんだけれども、何人分?という衣裳の着数。来週からは、これらの物を稽古場に入れて、少しずつ劇を立ち上げていく。とにかくまだまだやることがたくさんあるのだけれども、これだけ忙しいのは、喪主が悲しみにくれないように忙しいのと同じなのかもしれない。(10月18日)


Week2

久しぶりにお芝居をつくっている(と思う)。この1年半の個人作業の間につくり方がどう変わることになるかとぼんやり考えていたのだけれども、やっぱり少し変わった気がする。演出という作業が面白くて仕方がない。形の見えないピースでパズルをしているような感覚で、そのピースがスッとはまってひとつの大きな絵が見えるのは、本番の日なんだろうな。凸凹の形は毎日変化している海の中を踊る蛸みたいな感じ。

お稽古場ではまず俳優たちが台詞合わせをしていて、その間はスタッフと打ち合わせをしたり、足りていない道具を探したり。今回は決められたゴールに向かって突き進むというよりは、思いきって迷子になるようにつくっている。弔いの儀式の仕方を忘れてしまった/失ってしまった子どもたち、所詮は人間でしかない私たち。動物たちはもっと自由だ。動物たちは「その気さえあれば人間になれる」。人間は動物の役を演じることはできる。

土日のお稽古は横浜にある若葉町ウォーフのお稽古場を借りて。日光と風の入る稽古場はやっぱりいい。長時間いても疲れないし、稽古場の集中がおおらか。密室のお稽古場には動物も寄り付かない密室に集まって互いに台詞を言うなんて人間しかしない。

北川さんが編集してくれた映像も入って、初めての通し。凸凹の色彩はまだ変化する。京都に移動して、春秋座の搬入口という空間ピース、そして劇場実験に立ち会ってくれる予定の40人のお客さんたち。もう入り口には戻れないほど、深いところまで迷い込んでしまった。出口はない。「外から釘付けになっている。」(10月24日)

斎藤明仁さんによる稽古場レポートはこちら

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