小さな劇場『太陽のタネ』

作・演出:川口智子 / 出演・パーカッション:新野将之 / 映像:北川未来

主催・制作:くにたち市民芸術小ホール

一粒のタネが、ぽとんと空から落ちてきた。小さな小さなタネは、大きな世界へ旅に出る。やがて、タネから出てきたのは・・・?

セリフのない作品です。0歳児からの小さなお子さんと一緒に、ご家族と、お友達と、お一人でも。

心地のいい音楽と、光と映像による物語をリラックスしてお楽しみください。

Photo by Akira ENDO

【演出ノート】

2019年秋、多和田葉子さんと一緒に市民のワークショップをさせてもらった。2000字くらいの文章を書いてきて、作者自身が朗読するというWSの中で、鳥や木々の話を書いてきてくださった方がいらした。鳥の声を朗読の中に混ぜてもらうようお願いした。地下の小スタジオに優しい音色が広がり、くにたちと一緒にテントで見るような小さなベビー作品をつくりたいと思った。

2020年2月、とあるリハーサルを拝見する機会をいただいた。ホール中にこだまするパーカッションの音を聴きながら、テント型ベビーシアターのタイトルを『THE SUN』と命名し、パーカッショニストの方と一緒にこの作品をつくろう!!と、ひらめき。

小さな音楽会『太陽のタネ』はいわば『THE SUN』につながる試作品、くにたち市民芸術小ホールのステージ・クリエイションシリーズの一環としてスタートを切った。

ことばで書かれたメモのような台本を元に、ひとつひとつのシークエンスをパーカッショニストの新野さんと相談しながらつくる作業。演劇でもあり音楽でもある。そこに北川さんの映像が加わり、作品全体の世界観をきっちり見せてくれる。最後に映像に音楽が反応する形で、3者の幸せなコラボレーションになった。

お客さんたちも上演の一部をしっかり担ってくれて、未就学児の多かった公演では、ジャンベの音で子どもたちが踊り出し、そのエネルギーに圧倒され、小学生や大人の多い公演では床のマットに寝っ転がり”瞑想”のような時間をゆっくり過ごしてくれました。

これはくにたちのスタッフさんと共に、この2020年という予想だにしない展開を迎えている時だから生まれた上演です。”自粛”という言葉に疲れ切った私たちの心の隙間に、ふと生えた名も知らぬ草のような存在だといいなぁと思います。

やっとスタート地点です。これから、このタネを育てていきたいと思います。

【上演レポート】

東京学芸大の大学院生で、ドイツの演劇教育および乳幼児演劇について研究している仁科太一さんが、『太陽のタネ』のレポートを書いてくださいました。仁科さんのフェイスブックより転載させていただきます。


12月6日

くにたち市民芸術ホール

小さな劇場「太陽のタネ」

演出:川口智子

出演:新野将之

映像:北川未来

知り合いの演出家の方がはじめて乳幼児演劇に取り組んだということで、当日の公演のお手伝いに行ってきました。ふだんは大人向けの現代演劇を創作されている方で、過去の観劇経験から空間と小道具の使い方がおもしろくて、なおかつ演劇としてバランスが絶妙だと感じていました。それから、他ジャンルのアーティストとのコラボもされている方です。そういう方こそおもしろい乳幼児演劇をつくれると思います。

乳幼児演劇にもいろいろあるので一概には言えませんが、言葉の意味や登場人物のやりとりといった要素はもはや重要ではなく、その場の物質性の如何こそが、上演経験を形作る上で決定的な役割を果たすと僕は考えています。観客席を含めて舞台空間であり、その空間のなかにある物がとある仕方で観客の知覚に迫ってくる。そのことが乳幼児演劇の観劇経験にとっては重要なのだと思います。

「太陽のタネ」はまさにそうした作品だったと思います。「太陽のタネ」を想起させるような物が、パーカッショニストの手によって、楽器として知覚されます。会場の中央には演奏家のステージのような場所があり、そこには太鼓などの楽器らしい楽器もありますが、植木鉢や水桶など、楽器というよりは植物育成のための道具が置かれています。ほかにもカエルの置物(実は楽器です)もあります。楽器との並置やステージ的な配置によって、そこにあるものは楽器として知覚するものだという構えが生じ、上演がはじまるとまさに楽器として知覚されるのです。

すばらしいのはその際の演技です。すでに完成した曲を演奏するのではなく、物と接触し、そこで生じた音に喚起されて、そこに音楽が生まれていくように演技されます。例えば、植木鉢をいじっていたときにぶつけて鳴った「コーン」という音によって、それがリズムを刻むとき、植木鉢はただ植物を植えておくための道具ではなく、独特の音色をもった楽器として知覚されるのです。このとき、観客において物の知覚はドラマチックに変容します。実際にはある程度段取りがあり、およそその通りに進行しているわけですが、観客に知覚される演技としては、演者が今まさに物と出会い、そこから生じる音をもとに音楽を生み出しているように感じられます。

完成した演技ではなく、その場で生起するような演技が重要であるのは、乳幼児の反応がその都度変化し、それに応じる必要があるからということもありますが、僕は物という観点から次のように思います。上演にとって、物の知覚のドラマチックな展開が主軸にあるとき、舞台上の演者はこれまでの演劇のようにドラトゥルギーの中心に位置するわけではありません。演者と観客はともに「共探究者」であり、観客は演者のパフォーマンスによって物の豊かな展開を追体験するのです。

パーカッショニストの新野さんはまさに率先的な「共探究者」として、舞台上の物に関心を示し、それを楽器として探究するようにして演技します。それに応じて、子どもは共に驚き、そこから生じる音楽を楽しみます。そして、これはプロのパーカッショニストゆえだと思うのですが、一つひとつの音の響きかせ方、それをリズムとして構成するときの仕方が秀逸なのです。この点については、僕は専門ではないので、うまく記述することができないのですが、まさに鳴らしてほしい音が鳴らしてほしいタイミングで鳴るといった感じで、コンサートとしての質が十分にありました。この点は、演劇系の人だけでは成立しないものだったと思います。

上演の構成として、前半がそうした物-楽器の探究、次に映像、そして最後に情熱的なジャンベの演奏というふうに展開していきました。たっぷりと探究したあとに、演者が寝る演技をすると、会場が暗転します。パーカッショニストのステージを半円で囲うようにマットが敷かれており、その上で親子や大人のお客さんが寛げるような設えです。パーカッショニストのステージから観客席にかけて、その上を白い布が吊られているのですが、暗転したあとはそこに足跡が映写されます。観客席からは仰ぎみるような形となっています。

先ほどまでの陽気な雰囲気とは打って変わって、ぽつぽつと浮かび上がる足跡を追うことになります。このとき音はなく、いろいろな足跡を静かに仰ぎみるわけですが、このときだんだんと意識がもうろうとしてきます。なかには仰向けに寝転がる人もいます。上にぼうっと足跡が浮かび上がるのはなんだか奇妙な体験です。足跡は本来、下を向くときに見るものだからです。足跡は鈍い青や赤に光るのですが、それが、意識がもうろうとしたなかだと星空のようにも見えます。寝転がると一層、上下がまぜこぜになった不思議な感覚となるのではないでしょうか。

それからしばらくすると、うっすらと青白い空が映ります。それがだんだんと赤みを増していくと同時に、会場全体の照明も明るくなっていきます。気が付けばパーカッショニストも起きていて、演奏しています。ここら辺は目覚めかけの感覚を想起させます。夢と現をさまよいつつ、外はもう日が出ていて活気に満ちているような。これは僕の感想ですが。そうして演奏のボルテージも上がっていきます。最後は歌声もあがります。ここまで一声も発しなかった演者が、ここに来てようやくその肉声を発するということがこれまたドラマチックです。

演奏が終わるとお辞儀をして、お客さんも拍手をしてというふうに終わりますが、そのあと、演者の新野さんは鳥の笛を吹きながら退場してしまいます。会場の遠くに笛の音が聴こえ、それが小さくなっていきます。なんだかしんみりします。観客は会場に取り残され、さっきまでパーカッショニストがいた場所には物だけが残っています。このとき、物だけがぽつねんと残っているのもまた、独特の感覚を生んでいると思います。上演の残滓がそこにわずかに漂っているような、そんな感覚です。観客はしばらくその場に留まっていますが、このあいだに、ゆっくりと余韻を味わうと同時に、美的な態度から日常的な態度へとじんわりと移行しているのです。

久しぶりに充実した休日を過ごせました。この充実感は作品がすばらしいということもありますが、くにたち市民芸術小ホールの在り様にも感化されたからだと思います。僕は静岡に住んでいたときに文化芸術に関わるようになったのですが、そのときは文化芸術に参加することは地域に参加することとつながっていました。何かが上演されるということは地域のどこかでおもしろいことが行われるということでした。東京に来てから、この感覚はあまり感じたことがありませんでした。何か上演をしたとしても、それは仲間内だったり、アート界隈だったりでは興味深いことなのかもしれませんが、そこに地域という文脈を意識したことがありませんでした。今回、「太陽のタネ」では、地域の文化を動かすような仕事に立ち会えたという感覚がありました。国立市の公共ホールでこの作品をクリエーションして、上演すること。上演の中身としてはそれ自体自律したものだと思いますが、上演の外側、それが創作されるに至った経緯を聞いたり、当日の運営をしながら、地域のなかで舞台芸術をすることを実感しました。

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