長島確×川口智子、サイコシスを語る。

「4.48 PSYCHOSIS」テキスト・シェアリング

2018年12月26日(水) 終演後トーク @若葉町ウォーフ

トーク:長島確、川口智子 司会:里見有祐

里見:こんばんは、本日の司会を仰せつかりました横浜市文化芸術振興財団の里見です。横浜でアーティスト活動・クリエイター活動の創造の担い手のみなさんのサポートをさせていただいています。

では、今日のトークのお二人を紹介いたします。今回の主宰で演出を務められています、川口智子さん。そして本日のトークのゲストということで、翻訳家・ドラマトゥルクの長島確さんです。

最初に本作について、川口さんにお伺いしたいのですが、『4.48 PSYCHOSIS(以下、サイコシス)』はこれまでもいろいろな形で上演されてきたと思います。サラ・ケインは1999年2月に28歳の生涯を終え、この作品が遺作ということになりますが、なぜ、今、この作品の上演を行おうと思ったのでしょう。


川口:演出家として、劇作家のサラ・ケインに出会ってしまった、ということがとても大きいです。私は自分自身で戯曲を書くタイプではないので、どういうテキストと出会って、何を作っていくか、ということを常に考えています。その中で、サラ・ケインに出会った。出会ってしまった。

この作品は2003年にシアタートラムで最初に紹介されています(リーディング『4時48分サイコシス』、翻訳=谷岡健彦)。阿部初美さんの演出で、その上演を観たとき、衝撃はあったんですが自分が演出しようとは思っていませんでした。そのころ、まだ演出家を目指していなかったので(笑)。


里見:どういう状況だったんですか?


川口:どうやって演劇に関わっていこうかを考えているころでしたね。演出家になるとは思っていなかったのですが、2003年~2004年にロンドンで劇場通いしていて、そこから演出という作業が面白そうだなと思い、そこから演出に入っていくので、2003年当時は「この戯曲を上演したい」というように戯曲に出会うことはなかったんです。ただ、とても衝撃的ではあったので、サラ・ケインという劇作家が気にはなっていました。

そのあと、演出活動はサミュエル・ベケットから始めて、ベケットの小作品をいくつか上演していました(beckett café vol.1~vol.3/2008年~2010年)。そんな中、「次は何をやろう」と考えていた時に、大学の恩師でもある近藤弘幸さんから、サラ・ケインの”Cleansed(以下、『クレンズド』)”(邦題『洗い清められ』)という作品の翻訳を読ませていただく機会がありました。読んだら、「これは、演劇じゃない、ダンスをつくらなきゃ」と強く思いまして。2010年から2013年ころまで『クレンズド』を形を変えながら上演しました。『クレンズド』を上演しながら、『サイコシス』を読んでいくと、「『クレンズド』はダンスだ!」と思ったように「『サイコシス』はオペラだ!」と思い始めて。音楽でつくらなければいけない作品だと直感していたので、どうやったらオペラができるようになるだろうと考えながら5年くらい過ごして、やっと実現しようと思ったのが2017年。そこから、2020年にオペラを作り上げるというつもりで今やっているところです。


里見:ドラマターグのニーナ・ケインさんとはどういうきっかけで出会ったのですか?


川口:ニーナさんは、サラ・ケインの研究者です。2012年、『クレンズド』の3バージョン目『洗い清められ』を渋谷で上演していた時に、たまたま日本に旅行に来ていたニーナが上演を見てくれて意気投合しました。いつかサラ・ケインを一緒に上演したいねと話していたので、いよいよオペラに向けて動くという時にドラマターグをお願いしました。2018年2月に若葉町ウォーフに2週間滞在していただいて、ニーナと滝本直子さん(出演者)と私とでとにかく本読みとディスカッションをして、その滞在の中でつくり上げたのがこのリーディングのバージョンです。

里見:今日ゲストにお招きした長島確さんは2006年と2009年にドラマトゥルクと翻訳というかたちで『サイコシス』の上演に関わっていらっしゃいますね。今回のトークのために3人で顔合わせをしたんですが、長島さんと川口さんには共通項としてベケットということがあったと伺いました。川口さんがベケットを上演しているときにも長島さんとトークされていて、今回2回目なんですよね?


川口:それが2008年の本当にデビュー作の時で、人前に出るのが怖すぎてゲストだけでトークしてもらう、というトークだったんです(笑)。


長島:そうでした、そうでした。川口さん、お客さんの後ろの暗い中に立ってましたね(笑)。


里見:てっきり二度目だと思っていたけれど(笑)。


川口:ちゃんと、トークでこうやってお話しするのは、今回が初めてなんです(笑)。


里見:そうなんですね。それが、2008年でそこから10年くらいあって、それぞれに考えられることもあると思います。10年の中で時代背景も変わり、今、なぜ、ここで上演するのか。長島さんと川口さんにとって、今、サラ・ケインについてどのような考えがあるのか聞いてみたいと思います。


長島:僕も、川口さんに、「なんで今これなの?」ということを是非聞きたいんですが、前段として自分の話をさせてもらいます。里見さんが紹介してくださったように、2006年と2009年の2回『サイコシス』の上演に関わっています(ともに題名は『4.48 サイコシス』)。一方は翻訳、もう一方はドラマトゥルクというクレジットでしたが、両方とも翻訳をしています。2回は結構別々の解釈で翻訳をしています。

 面白いのは、その前にベケットをやっていた、という共通項なんですね。僕もちょうど2000年代前半に俳優の鈴木理恵子さんが主宰する「ベケット・ライブ」というシリーズで、ベケット作品の上演に関わっていました。その時一緒に組んでいた演出家が阿部初美さんです。阿部さん演出で、先ほど話に出たサラ・ケイン日本初紹介のリーディングを僕も見て、この戯曲を知り、ふたつのことを思いました。

 ひとつは、「すごく怖い内容だ」と思った。本当に怖い。もうひとつは、ほぼ同時に英語の原文を見る機会があって、とてもびっくりしました。人数も指定されていないし、性別も不明。どう上演するかを演出家が判断しないかぎり、形にならない種類のテキスト。どこがト書きで、どこがセリフなのかもわからない。普通の戯曲のようには構成されていない、切り取り線みたいな点線で区切られた24の断章からできているのを見たときに、すごい自由を感じました。そのころ、ベケットは面白いんだけど、劇作家として演出をコントロールし過ぎだと感じていて、そこが不満で、呪っていたんですね(笑)。ベケットは、セリフの間にとても細かいト書きがあったり、全体の上演の構成・構造のアイディアに対して、今の感覚だったら明らかに演出の領分だろうっていうところまで、はじめから組み込んで書いてある。それが面白さでもあるけれども、とても窮屈でもあると思っていました。そんな時に、演出なり、演技なり、稽古なりのプロセスの中で、解釈の余地がものすごく開かれている、びっくりするぐらいオープンなものが出てきたと思いました。

 2006年に東京国際芸術祭で阿部初美さんと上演したときには、すでに谷岡健彦さんの翻訳があったのですが、演出とセットで訳さないと意味がないと判断して、完全にこの時の上演に特化した翻訳をしました。その後、2009年にフェスティバル/トーキョーで飴屋法水さんが演出するときにも、飴屋さんや俳優たちとディスカッションしながら変えていくという形で、また訳し直しました。その時に感じた「自由」の感じ。それから、もう一回言いますが、「すっごい怖い」感じ。2006年3月の上演のあと4月からドイツに行ったんですが、精神的なダメージが大きくて、まだ春の来ないベルリンの雨の中、ひとりで、鬱々とした1か月を過ごしたのが思い出深いです(笑)。

 今日いろいろなことを思い出しましたが、あの時の「怖さ」からだいぶ距離ができてしまったような気がしていて、それが、僕自身が慣れてしまった、もしくは鈍感になってしまってわからなくなったのか、それともサラ・ケインの登場した、あるいは日本を含め盛んに紹介され上演されていた時期と時代的に距離が出てきたのか、そのあたりはどっちなんだろう、と思います。今、あえて取り組んでいる川口さんがどう思うのか、ぜひ聞きたいです。


川口:まず、ベケットの話からですが、これはとても嬉しい共通項でした。私は本当にベケットが好きで、顔からして好き(笑)、本当にかっこいいなと思ってベケットを始めました。『プレイ』という3人の男女がそれぞれ壺に入っているというお芝居を上演した時に、完全に「壺を着る」、壺コスプレみたいな演出にしたのですが、今、思えば“ベケット・コスプレ”だったんだと思います。

ベケットの場合は、締め付けの中で逆説的に身体を証明していく面白さがあるのですが、『クレンズド』を読んだときに走り回っている体のエネルギー、ベケットとはまた別のエネルギーの在り方にびっくりしました。動いている体のエネルギーが受け取れる戯曲、それで「ダンスだ!」と思った。そういう演劇的な意味では、今回『サイコシス』を読み直していく中で、これだけ多彩な文体をもっている劇作家もなかなかいないだろうと思っています。24の断章のひとつひとつの形式が、クリアにイメージを持っていて、そういうある種のコラージュとして戯曲になっている。そのコラージュ的なありかたが面白いと思ったひとつの理由で、それをつなぎあわせていく音楽→「オペラだ!」に飛ぶんです。それは、作品づくりの中で演劇として取り組みたいことのひとつです。

 もうひとつは、サラ・ケインの戯曲が持っている時間の長さ。この作品は特にパーソナルな物語のように読めますが、個的な体験のような話をしながら、実はとても長い時間のことを描いていて。その可能性を見たときに、サラ・ケインを起点として2020年も照射されていたと思うし、そこで何が見えてくるのかをつくりたいということがあります。だから、とても現在的な戯曲として読み込める。今回のテキスト・シェアリング版で言えば、これだけのものを書いた人がいて、これだけのものを読む人がいる。当たり前のようでいて、人が書いたことばを聴くとか、読むとかっていうことをやりたいと思いました。私は「ことば」という存在が好きなので、今、記号的な役割だけになってきてしまっている(かもしれない)「ことば」という存在を、書く、読む、聴く。劇場にいなければ、人の話をだまって70分間も聴くなんてことは多分あまりないだろうし、それをやりたいと思いました。


長島:なるほど、すごく意識的に、この戯曲を「書かれたことば」として受け取り、扱おうとしてたということですか? 今回聞いていて、いろんな引用があって、元ネタだらけだと改めて思いました。本人が素で書いているものだけじゃない部分が結構含まれている。同時に、今回の上演では2層のテキストがあると思いました。ひとつはダイアログの部分で、これを川口さんは、ある種現実に起こったこととしてとっているのか、それともそここそが作家が書いた戯曲なんだととっているのか、どっちなんだろうと思いました。それから、それ以外の部分は「メモ」だなあ、と。書き手にとってとても重要で真剣なことも書いてあるんだけれど、場合によっては「痛い」ことも書いてある。創作ノートみたいな感じ。そんな感じがすごくして、それは面白かったんですが、そのあたりは意識していたんですか?


川口:そうですね。サラ・ケインは劇作家だとすごく思うんですね。人に上演されることを前提で「手渡している人」。最後の「お願い、幕を開けて “Open the curtain”」を今回のリーディングでは「上演してください」という意味にとっています。あれだけの「メモ」をある意味「任せるわ」って、誰が受け取ってくれるかわからないけど、とりあえず残すね、みたいな。それは劇作家の生き方・在り方として、自殺したからではなく生きていても同じだと思うのです。自分の書いたものは自分の体を離れて、その意味では紙に書かれている重要性みたいなものもある。私たちは、紙に書かれたものを物体として受け取って、それを上演としてまたパス(渡)していく。さきほど戯曲の描く時間の話をしましたが、サラ・ケインは自分ひとりで終わらない、劇作家として重要な態度を持っているのではないかと思ってつくっています。私も、出演の滝本さんも、今日劇場にいらしたお客さんも、全員がそのパスを次に渡すという行為の中間者であるるような。かなり大量の引用ですし、サラ・ケインは引用の書き癖みたいなものもあります。好きなんですよね、きっと。引用して、コラージュして書く。それも敢えて出典が明らかになるような書き方をしている。けれども、本当にすべてのことば、一言一句がパスなので、それがサラ・ケインからのパスなのか、引用元からのパスなのかわからない。「ことば」というものが、まったくオリジナルにはなれない、という一番の性質を持っているがために、という感じですかね。


長島:わかる気がします。この戯曲は、やる側にとってすごい落とし穴があって、自分に引き付けて理解してしまうと多分つまらなくなってしまう。「私がサラ・ケイン」みたいな、そういう気持ちってあると思うんだけれども、それでつくってしまうと多分見るに堪えないものになると思います。その意味で、他者として距離を持たないと扱えない。今回、ひとりで上演すると聞いていたので、すみません、勝手に心配していたんだけれど。

 だから、僕が阿部初美さんと上演した時には、中学生から60代までの5人のキャストでやったし、飴屋法水さんと上演した時は、国籍混交で12人、音楽奏者や飴屋さん自身を含めるともう少し増える形で、「“私”=サラ・ケイン」とは違うアプローチをしていました。でも、今回のひとりの上演でも、「“私”=サラ・ケイン」には見えない、その距離感がよかったと思いました。


川口:この上演は2018年2月につくって、今回の上演で3回目になります。なんだかんだで本番を何回もやっていくと演じたくはなると思います。でも、リーディングのおもしろさは、ことばが物質的に存在すること。物質的なことばがきちんと立ち上がることだと思います。役者さんの肉体を使って読んで行くという作業と、物質的にことばと離れているという状態がとても重要だと思います。今回の「テキスト・シェアリング」という言い方には、ことば自体をある種の展示にしたいという意図を込めています。ことばを音でも概念でもなく、実体的な物質としてそこにあるものとして扱っています。


長島:ディテールについて質問していいですか? 映像が2度出てきました。2つ目はシネイド・オコナー。1つ目は?


川口:ひとつめはビキニキルの「レーベルガール」という曲です。


長島:なぜ? と思いました。というのは、この間の打ち合わせの時にも話したのですが、今日シネイドが出てきてますます思ったんですが、サラ・ケインの創作は1980年代イギリスの音楽状況とすごく結びついていると僕は理解しています。当時、ポストパンクの流れからニューウェーブが出てきて、戯曲の中にもJOY DIVISIONというバンドに関係のあるフレーズだったり、THE SMITHというバンドの曲のタイトルが入っていたりする。彼らの音楽では、80年代前半のサッチャー政権の構造改革の中での、仕事のない若者たちのストレスとかが、文学的でありつつも、非常に挑発的に、今だったら炎上間違いないような過激な形で歌われています。そのニューウェーブの影響をものすごく受けていると思います。シネイドもその流れの中で活動を開始していますよね。

 シネイドはプリンスの提供した“Nothing Compares 2 U”という曲で世界的に有名になりますが、その前の1作目のアルバムがとても過激で、カトリックに対する相当なプロテストというか暴言というかを歌っていました。イギリスの音楽ではそういう政治的・社会的な傾向が80年代にあって、それと同時にデジタルシンセの普及でサンプリング全盛期が来て、既存の楽曲の引用が著作権問題として物議を醸すようになります。サラ・ケインのテキストの書き方も、こういう流れを受けて自然に出てきたように思います。それを今、どういう風にもう1回開くのかっていうのが重要なポイントだと思うのですが、そこにツール的な意味でシネイド・オコナーが出てきて、すごく不思議な感じがしました。


川口:そうですね。私もこの間の打ち合わせで「サンプリング」というお話を聞いた時に、「わーーーー!」と思ったんですけれども、やっぱりサンプリングなんですね。今では……


長島:「コピペ」っていうと思うけど。


川口:「コピペ」ですね。このリーディング版については、戯曲がコピペ、コラージュの状態なので、演出もそういう状態にしようとおもいました。リーディングはテキスト自体の存在を明らかにする、というイメージでつくっているので、そこで行われている運動自体を舞台上に上げる必要を感じています。

 そんなことを考えながら、戯曲を体感できる音楽を探していた時に、ドラマターグのニーナ・ケインがシネイド・オコナーを提案してくれました。最初は「トロイ」という曲を紹介してくれたところから、いろいろと探しているうちに、今回の映像に行き当たった。ボブ・マーリーの“WAR”をテレビの生中継でアカペラで歌い、ローマ法王へのプロテストを表明している映像です。すごく強い映像ですよね、「これだ!」と思いまして。


長島:スキンヘッドだし(笑)。


川口:スキンヘッド(笑)。


長島:サラ・ケインが知らなかったはずがないと思いますね。

川口:そうですね。それから、全体を「サウンドドラマ」として音楽的につないでいきたいと思って、何をコラージュしていくかを考えました。


長島:録音を結構使っていたのは? 録音が終わったこと=過去のことという距離感が面白いと感じると同時に、あるノスタルジックな情緒も生まれてくる気がして、その情緒が良いのか悪いのかどっちなんだろうと思いました。


川口:録音は初演の時にすべて終えているので、実質的に距離が出てきて。上演するたびに録音からも聞こえてくるイメージが変わるので面白いなと思っています。

里見:話がつきないですが、そろそろお時間になりますので、これでアフタートークは終わりにしたいと思います。2020年にオペラ化を計画されている川口さんの今後の活動にもぜひご期待いただきたいと思いますが、最後に長島確さんから、ひとこと。


長島:僕が最初にこの戯曲に出会ったころは、小泉政権の構造改革のころで、非正規雇用とか就職氷河期の問題が浮かび上がってくる中でとてもヒリヒリする感じがありました。自殺やリストカット、鬱などについても、今の社会とは響き方がだいぶ違っていたような気もします。もっと触れてはいけないもの、語ってはいけないもののような感じがありました。この感じ方の変化が、個人的なものもあるかもしれないけれど、この十数年の間に確実にあって、そのこととこのテキストの間に、いったいどういう関係があったんだろうと考えてきました。今日、拝見していて、サラ・ケインが生み出したころと地続きのリアリティが一度洗い落された後で初めて、もう一度立ち上がってくる可能性がある時期に来ているのかなと、とても期待、希望を感じました。この作品に希望を感じるってどういうことなんでしょう(笑)。


川口:まずいですね、それは(笑)。


長島:でも、思いました(笑)。


全員:どうも、ありがとうございました。


パンクオペラ『4時48分 精神崩壊』の公演ページはこちら。

Tomoco KAWAGUCHI 川口智子

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