【con-cen】『恋愛のあなた(たち)・断章】(大人の読み聞かせ/レパートリー、2024年初演)
「大人の読み聞かせ」シリーズでもレパートリーができました。
魔法めいたものにすがるとか、ささやかな秘密の儀式をとりおこなうとか、誓願をたてるとかいった行為は、教養の如何を問わず、恋愛主体の人生にはかならず存在するものである。
ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』「魔法」
構成・演出:川口智子
出演:稲継美保
企画制作:con-cen/consonant centre
ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』は、バルトがゲーテの『若きウェルテルの悩み』やプラトンの『饗宴』、ラカンやウィニコット、達磨の話までもを引用しながら、恋愛の主体、恋愛の宇宙を解き明かそうと短い80のテキストを断章として著し、それをアルファベット順に並べて書籍の形になったものだ。
『恋愛のあなた(たち)・断章』では、構成・演出を務める川口智子がその80の恋愛のフィギュールに再びテキストを引用して作り出した占いの書を元に、稲継美保演じる魔女が観客の差し出す数字の書かれたカードで観客と世界の恋愛を占う。
と、書くとなんとも難しく妖しい演劇のようですが、実のところ『恋愛のあなた(たち)・断章』は誰でも一度は考えたり、体験したり、喜んだり、悲しんだりしたことのある「恋愛」という行為を取り上げた魔術的な遊びの時間です。その日に読まれるテキストはお客さんの差し出すカード次第。
「大人の読み聞かせ」、みなさんの元に出張して、曖昧な私(たち)の未来を占います。
「悪魔」の引き札――『恋愛のあなた(たち)・断章』に寄せて
ファヨル入江容子
『恋愛のあなた(たち)・断章』は実験的であり、魔術的でもある新しいタイプの演劇作品である。本作の世界初演に立ち会えたこと、そして、わずかな時間とはいえ、観客、「読者」、「恋する「私」」として、この作品に参加できたことは幸いであった。
開場の30分ほど前に劇場に到着した私は、すでにこの瞬間から、作品と私の人生との間にシンクロニシティが起こっていること、そしてすでに演劇が始まっていたことに、このときはまだ気づかなかった。絵葉書、古びたラジカセ、ガーベラ、レモン、カメラ……、さまざまなオブジェが並べられた長方形の大きなテーブル。その各辺に置かれた四脚の椅子。さらにその周囲に観客――つまりこの日集う「読者たち」、「恋する者たち」――の座る椅子がぐるりと取り囲んでいる。舞台と客席を分つ段差はなく、「見せる」、「見せられる」という権力関係はあらかじめ排されている。
開場前のこの劇空間で魔女がひとり、台本に目を落としている。主演の稲継美保さんである。脚本を構成し、演出を手がけた川口智子さんは、部屋の片隅におり、キャンプ用シングルバーナーでお湯を沸かしている。薔薇の花弁が浮かんだお茶を私に振る舞うのだと。彼女はこの劇空間の創造主であるにも関わらず、劇中では「見習い魔女」を演じていた。
開場まで楽屋で待機することになる。この「楽屋」と呼ばれる空間は、薄壁で仕切られただけの空間だが、ぽっかりと浮かんだ扉の向こう側は異界に続いているように見える。中に入ると、「研究者」を名乗る人物がソファに座っており、挨拶を交わすが、黄昏時の薄暗さでは顔はよくわからない。胎内もこのような仄暗さなのだろう。しばらくすると、二人の魔女も傍にいた。なぜここに呼ばれたのか、何を話すべきなのかなど、私はもう考えるのをやめてしまった。「開場です」の呼び声で、劇場から照らされる光の眩しさを感じながら、私は楽屋を出た。
開場後、入場する観客たちは各々、数字の書かれたカードを一枚引く。私の引いたカードは26番だった。この演劇はある種の占いでもある。
本作はロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』に霊感を受けている。「恋愛主体」と呼ばれる読者は、「分析主体」のパロディに見えるが、「恋する者を単なる症候主体に還元する」(*1) ことに反して、そのように呼ばれているだけだ。欲望に駆られた読者は、さまざまに重なり合う、恋愛に関わるテキストに弄ばれる。ほつれたテキスト=織物の糸を掴んでも、一貫性にたどり着くことなどなく、テキストの中で漂流し、迷子になるように仕向けられている。項目がアルファベット順に並んでいるのは、ある種の罠だ。それは、西欧の言説の中で孤立化されてきた「恋愛にかかわるディスクール」の現状を読者に確認させる場でもある。
『恋愛のあなた(たち)・断章』の構成は、このバルトの著作と入れ子の関係になっている。バルト自身のテキストと彼が友情の徴を送るテキスト、そしてそれらと呼応する形で、脚本家・川口さんの本棚から出張してきた、すなわち彼女のこれまでの創作の糧となってきた選りすぐりの断章によって織りなされている。これらの80葉のテキストのうち、いくつかが「魔女」の稲継さんによって読まれることになるのだが、それは、上演時間中に、いく人かの観客=読者が差し出すカードに書かれた番号に対応する。そのため、すべてのテキストが読まれることはなく、上演のたびに異なった状況が生まれることになる。この効果は、ひとりの読者による黙読を想定したはずのバルトの著作をよい意味で裏切っている。書物の綴じ糸を断ち切り、それらテキストの破片〔fragments〕を、脚本家の生と結びついたテキストと交差させ、さらには「声」を通じて、あるいは沈黙を通じて、「聞かれるテキスト」あるいは「聞かれないテキスト」として、全く別の次元、「外」へと開かれるのだ。
観客は、「読者」として、そして悩める「恋する「私」」、「恋愛主体」として、この演劇に参加することになる。それぞれのカードに対応するテキストの指示はさまざまだ。あらゆる時間が流れる。松任谷由美の『やさしさに包まれたなら』に合わせて魔女が踊り、それをひたすら待つ時間――「小さい頃は神さまがいて……」――、魔女によって手渡されたテキストを「読者」が黙読し終えるのを待つ時間というのもある。
魔女は優雅にお茶を飲みながら、読んで欲しい人はカードを持ってきてほしいと呼びかける。誰が最初の一歩を踏み出すのか。「読者」たちが逡巡する時間を待つのが耐えがたかったせいもあり、私は一番に名乗り出てしまった。「恋愛主体」はいつだって「我こそは」と前のめりなのだ。「26番ですね」と、その番号の付されたテキストを探し、見つけると「フフ……」と笑い、「26番、悪魔!」といって参照テキストを読み上げる。劇中で出典を明かされはしないのだが、それはウノ・ハルヴァの『シャマニズム』からの一節だった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、北方ユーラシアの諸民族の神話や言い伝えを収集したフィンランドの宗教学者の著書である。「ノアの方舟」の逸話は誰もが知るところであるが、この洪水伝説にはさまざまなバリエーションがある。紹介されたのは、偽メトディウスの作品のロシア版に描かれたというものだ。船大工ノアが何をしているのかを探るために、悪魔がノアの妻を誑かし、ノアに酒を飲ませて秘密を聞き出そうと指示するが、さまざまな妨害にも関わらず、箱舟は完成する。そこで悪魔はノアの妻とともに箱舟に乗り込むのだ。読み上げられたテキストは次の一文で終わる。
箱舟に乗り込むと悪魔は鼠に姿を変えて、舟の底をかじって穴をあけ始めた。(*2)
ノアの箱舟に悪魔が乗り込むという発想は、私にはまるっきりなかった。
あっけにとられる私への処方箋として、魔女が小さな紙片に即興で書きつけたのは次の言葉だった。
やがて新たな傷口が開き、古傷の痛みを紛らわせてくれる
そこで、私は「この言葉は共有しなければならないと思うので読んでいいですか」と、観客が読むという逸脱行為を魔女に頼んだ。「どうぞ」というので読み上げた。
この言葉は、『恋愛のディスクール』「悪魔」の項(「われわれは自身にとっての悪魔」と副題がついている)に登場するゲーテ『若きウェルテルの悩み』の引用である (*3)。
精神的な傷であれ、肉体的な傷であれ、古傷が癒えるとは、新たに開いた傷口の痛みによる忘却なのかもしれない。しかし雄弁な傷口たちは増殖するのだ。「恋愛主体はしばしば、自分の言葉の魔につかれていると感じる」(*4) 。このせいで、恋するゲーテ=バルトは「楽園から、わざわざ自分を放逐」(*5)し、傷口をイメージの供給源として、新たな傷が生まれるまで、開いたままにしておく。バルトによれば、多弁な悪魔もまた複数である。退けても、また別のところから語りかけてくる。人生は、おのれに住まうネズミ=悪魔が舟底を食い尽くし、船が沈むまでの束の間の時間、あるいは、内側から臓器をあますところなく食い破るまでのかくも不吉な時間なのかもしれない。終末に向かう沈みかけの箱舟に乗りながら、舟底のあまたの傷口を塞ぐこともなく、「あの人」への思いに駆り立てられ、「復活」を夢見ている。
正直に告白すると、私はこのとき、二年間に亘る苦しい恋の終わりを目前にしていた。読者として、翻訳者として、あるテキストに恋をしていたのだ。その言葉を母語である日本語に移すべく、意図を汲み取り、訳註で伴奏しつつ、ある種、審神者になりきり、おのれを捧げていたのだ。著者は存命だが会ったことはない。テキストを通じたやりとりしかなかったが、返信が来ないこともしばしばで、すべての恋人たちと同様、その応答を待って苦しんだりもした。私は「恋愛主体」=「苦行者」として、ナルシスティックな自己犠牲を見せつけ、恋愛対象の気を引こうとし(*6) 、ひいてはその目に私が唯一最良の「恋人」=「翻訳者」として映ることを夢みていた (*7)。私のこの「不幸な恋」が報われるか報われぬかは別として、いずれにせよ、その「終わり」という成就の手前にあった。アフタートークに登壇したのは、彼女の来日講演を2日後に控えた夜であり、翌日は早朝に、この思い人を関西国際空港に迎えに行くことになっていたのだった。
こうした事情で、第二部はdialogueと題されているにも関わらず、この劇作品で起こった現象と人生の一致の感動についてすべてを急いで語ろうとしたせいで、私は自分の言葉で窒息しそうになりつつ、ほとんどmonologueとなってしまった。悪魔に取り憑かれていた哀れな「恋愛主体」は足早に劇場を後にし、新大阪行きの終電に飛び乗った。私はやさしい「見習い魔女」がもたせてくれたサンドイッチを頬張りながら、あの時間、一度死に、胎内めぐりをしたのち、生まれ直したのだと思った。それは何らかの悪魔祓いに他ならなかった。再び別の悪魔が囁きかけに到来するとしても。
(*1)ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳、みすず書房、2020年、5頁。
(*2)ウノ・ハルヴァ『シャマニズム――アルタイ系諸民族の世界像』田中克彦訳、三省堂、1989年、136頁。
(*3)Cf.ロラン・バルト、前掲書、121-122頁。
(*4)同上、121頁。
(*5)同上。
(*6)Cf.同上、52頁。
(*7)Cf. 同上、 249頁。
【問合せ先】
con-cen/consonant centre(コンセン)
「東京ローカルの劇場をつくる」プロジェクトを展開するコレクティブ。2024年設立。
劇場の機能を分析・解体し、東京の”地”に即した形で展開するためのプロジェクトを運営(予定)。稲継美保、加藤仲葉、川口智子、中條玲、堀切梨奈子、矢野昌幸の集まりから成り、俳優・演出・アートマネジメント・建築・アーカイブなど異なる視点から企画・運営を行う。
mail:consonant.centre@gmail.com
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