4.48 PSYCHOSIS review

再演決定! 詳細は近日中にお知らせいたします。

テキスト・リーディングを終え、2019年に本公演予定のこの企画へ、コメントをいただきました。舞台写真とともに掲載させていただきます。

コメントをいただきました、徳永京子さん、渋革まろんさん、柴田隆子さん、西樹里さん、關智子さん、才目謙二さん、高宮知数さん、ありがとうございます。

 川口智子が演出したリーディングを観て『4.48 PSYCHOSIS』の理解がガラリと変わった。重度の鬱と、思考する力を奪う抗鬱剤の副作用に苦しみ、そのどちらからも解放される早朝のわずかな時間に書かれたという、タイトルにもつながるエピソードがあまりに強烈で、内容が断片的だということを前提にしていたのは、不幸な誤解だった。薬の名前と呪詛の言葉の羅列の下には、冷静な劇作家の意志があり、静かだけれども確信をもってドラマを前に進めていた。「サラ・ケインは明晰にこの戯曲を書いた」という仮説を立て、川口が狙いをつけて掘り進めた場所に、確かに柱はあったのだ。本公演ではさらに発掘は進み、きっと全容が見せてもらえる。

徳永京子/演劇ジャーナリスト

 

 2月7-8日に上演されたテキスト・リーディングはアイデンティファイされる以前/以後の〈私〉をめぐる刺激的な試みであった。まるでコールセンターに勤務するように白いジャケットを羽織った短髪の女性が、ヘッドセットマイクを装着してテキスト片手に語り始める。彼女は執拗なまでに〈私〉について語り続ける。しかし、マイクを通じて電気信号に変換された声は、その言葉がいったい〈誰〉の言葉であるのかを不明化してしまう。〈私〉が語るアイデンティティは常に〈誰か〉に語らされたそれなのだ。だから『4.48 PSYCHOSIS』を遺作に自殺した彼女は、実は自殺したのではなく、〈私〉を簒奪する〈誰か〉に殺されたのかもしれない。では、だれが彼女を殺すのか? 「わたしが消えるのを見て」と発するテクストが、観客にその現場を直視しろと訴えかける。ここに本作の凄みがある。

 だが一方で、川口智子は決して本作を「遺作」として扱わない。「幕を開けて」で閉じられるテクストは、まさに膜を破ることで〈誰か〉に侵される以前の〈私〉を産み落とすことをも要請しているからだ。私たちがまともな社会を建設するため、つまりは私たちが大人になるため供犠に捧げて殺してしまった子どもたち。その子に言葉を与え、そこから世界を刷新すること。このラディカルな意志のスタイルが川口智子の魅力であることは疑い得ない。

 『4.48 PSYCHOSIS』は上演されることで幾度となく産み落とされる。まだ見ぬサラ・ケインの子どもたちは、私たちに見届けられ聞き届けられることを待っている。

渋革まろん/演劇批評・「トマソンのマツリを考える会」代表

 人は言葉で作られている。そのことを強く意識させられたリーディングだ。登場人物という意味ではない。滝本直子の声を媒介に語られる言葉の数々は、個々の意味は丁寧に伝わってくるにもかかわらず、一つの像は結ばない。途中に挿入される文字や語りの映像は、背後に<ケイン>を想定させるものではなく、テクストにある言葉の強さや音楽的な響きを感じさせるものの、それは表象の不可能性や解釈の多義性を示すというわけでもない。しいて言うならば、他者として位置づけされた世界との新たな関係性の構築を試みて、多層的な人間の存在のありようを実験していたとでも言えようか。夭折したケインの<言葉>が、様々な媒介項を通して出現してくる。1つの物語にはおさまらない言葉たちの群れは、どこか身近に感じられるがゆえに居心地が悪く、意識下でなんとか折り合いをつけているカオスな現状を暴いてくるようである。

柴田隆子/舞台芸術研究・批評


 リーディング上演を体験したうえでの丸二年をかけたこの企画に対するコメンテール、という想定で話します。『4.48 Psychosis』をやるとなったら、このテクストに太刀打ちできる強度を持った身体/俳優がそこにいなくてはならない――、加えて女性性が不可欠と私は思っていたのだけれど、今回のリーディングを経て、男性女性ではなくてヘルマフロディトス的なものがそこに存在する必要があるのかな、と考えるようになった。未分化の、異質で、普遍的な、何者か、「他者」が。当日パンフレットにあったバルトの『恋愛のディスクール・断章』からの短い抜粋が観る者をそう導いたのか、あるいは舞台装置の誰も座っていない椅子と机(ちょうど人ひとり座れるだけの空間があった気がする)、宙吊りの額が、まぶたを閉じている俳優の顔が、いまここで語っていながらそこにいない「わたし」を照射したのか。このテクストの詩的な明晰さを保ったまま、上演へ向かうことを期待しています。

西 樹里/ドラマトゥルク、パフォーマー

 川口氏が演出したサラ・ケイン作品を拝見するといつも、テクストに対する誠実さを第一に感じる。それは「戯曲に忠実」という意味ではない。人と向き合う時のように、対話し、お互いの思考を付き合わせ、寄り添ったり離れたりしながら、丁寧に関係を構築していく。

 『4.48 Psychosis』は、演出家がテクストとの距離感に戸惑う作品の一つだろう。(想像でしかないとしても)執筆当時のケインの状況と重ね易くあり、また登場人物について不明瞭であるにもかかわらず一人称が極めて多い作品であることが原因だと考えられる。

 今回の公演で川口氏は、これまで長い時間をかけて培ってきたケイン作品との距離感を作品に昇華させていた。他者の言葉を読み、イヤホンから聞いている俳優(滝本直子)は、『サイコシス』の上演でしばしば見られる「病んだ女性」役ではない。むしろ彼女は、書かれた言葉とそこに読み取ることができる思考に寄り添おうとする者、すなわち川口氏自身あるいは観客の姿に近いだろう。

 舞台端に置かれたまま誰も使わない机と椅子は、次第に雄弁になる。作中で発される言葉たちと、沈黙した家具が、つながりを持っているように思われるのだ。「幕を開けて」という最後の言葉の後、誰もいない机と椅子の上、「ハッチが開い」て「寒々とした光」が当てられるかのような演出がなされている。そこに座っているのは、ケインか、観客自身か、あるいは他の誰かか。一定の距離を保っていたはずの作品世界に、一気に引きずり込まれる美しいエンディングだ。

關智子/東洋大学他非常勤講師、Confettiライター、批評

 2018.2.7 若葉町ウォーフ主催アーティスト・イン・レジデンス企画のリーディング公演、サラ・ケイン『4.48 Psychosis(4.48 サイコシス)』川口智子さん演出を観劇。アーティスト・イン・レジデンスの良さが発揮され、上演を支えるすべての要素が高い次元で絶妙にバランスし相乗する素晴らしい舞台だった。ドラマトゥルクで参加しているニーナ・ケインさんが舞台づくりにどの程度貢献されているか詳らかではないが、おそらく本公演のプラットフォームを構築されたのだと思う。目には見えないが、その強固な基盤の上で、サラ・ケインの厳しいテクストが生き生きと息づいた。そして音楽・音響・照明・映像・舞台装置、加えて都会の騒音(たまたま真っ赤な緊急車両がサイレン音を鳴らしながら窓外を通り過ぎた)までも引き寄せ、すべてが相俟って傑出していた。

 27歳でこのテクストを書き、28歳で自殺したサラ・ケインについては再説するまでもないだろう。テクストは午前4時48分という払暁における精神の明晰さに貫かれ、容赦なく自らを傷つけていく。「主体が自分を償いようもないところまで破壊してゆくものとして体験する」精神の限界状況(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』~当日パンフより)。27歳時点のサラ・ケインのテクストは観客をいきなり若い日の過酷な精神状態へ引き戻していく。ボードレール『惡の華』の「L´HÉAUTONTIMOROUMÉNOS 我とわが身を罰する者」という詩篇のように、「傷」であって「短刀」であるような強い言葉がズブズブとこちらを突き刺していく。

 しかし、サラ・ケインの壮絶な言葉を、ボーイッシュな感じの滝本直子さんは実に素直に提示してくる。それ故に言葉がストレートに届く。その素直な感じがラストの naked な身体性でのシークエンスで効いてくる。

 また、主人公は「心の声」のようなものと対話するのだが、ドルニオク綾乃さんの声が素敵で録音とは思えない可憐さがある。あるいは言葉に効果音が反応する。声や音との生きたやり取りが主人公の孤独をいや増し、ひとつの宇宙が形成されていくような気がした。

 音楽のセレクトも含めて今回の音響設計の巧みさ、処理技術の高さは特筆すべきものだろうと思う。

 リーディングという形式で演劇を超えてしまったかもしれない舞台であった。サラ・ケインのテクストに出会うには最高の条件が整っていると思う。重々しく取り組むのではなく、軽々とやってみせたところが私などには新鮮で、川口智子さんの演出スタイルに惹かれるところでもある。

才目謙二/舞台評論家、演出家

 このプロジェクトの良さは、そこに川口智子をはじめとするメンバーの悪戦苦闘ぶりが垣間見えるからで、それは決して若さ故では無く、むしろ時代への抗いと自負心によるものだと思います。

 昨今、社会包摂やら文化起業やらで、各地で文化交流、AIR、ワークショップが多数採択展開されています。“お年寄りが元気になった”、“若い人が来てくれた”、はては当事者自らが、“励ますつもりが励まされた”だの言い出す始末です。10haの畑を踏みにじり、1万個のLEDを使い捨て、高コストの公共事業ばかりが溢れかえる地域プログラム。

 今日、それらの誘惑を振り切り、創造が生まれる現場をつくり出し、持続することの困難、彼らの“芸術的葛藤”(北田暁大)。

 残念ながらそれらが開花するだろう21世紀後半を見届けることが出来ないことに嫉妬しながら、文化プロジェクトとして、その活動を高く評価し、期待したいと思います。

高宮知数/プロジェクト・デザイナー、

東日本国際大学地域振興戦略研究所客員教授

舞台写真 遠藤晶

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